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人生物語1.誕生から苦難の始まり

1975年1月大阪府摂津市で三人兄弟の末っ子長女として誕生

父はネクタイを締める仕事ではなくいつも汚れた服の作業着で過ごすトラック運転手!母は一つ上の姉さん女房で美人専業主婦から近所のパート→生保レディーに。

産まれた時は待望の女の子ともあってそれはそれは可愛がられました。3歳まではよく家族で出かけたり母方の親戚に会いに行ったりと仲の良いごく普通の家族でした。当時の母は専業主婦だったので私は幼稚園に行かせてもらっていて、お弁当箱は好きなアイドルのピンクレディーでした。外では猫被る大人しい子、内弁慶でわがままやりたい言いたい放題だった私は、5歳くらいで素直になった方が良いかも?と学習し比較的、素直で大人しい子でした。(今では想像つきませんが💦)2人の兄がいたこともあり、ショートヘアーでボーイッシュ、男の子に間違えられたこともありお転婆に転身していき、気がキツくて兄(次男)を嚙んだりして泣かしていたとか(ごめんなさい🙇)

外で遊ぶのが好きで、ボール遊びやゴム跳びとかもやってましたね。男兄弟だったからかぬいぐるみ遊びなど女の子が好きそうなことはあまりしない子でした。

小学校に入る前から父はボーイスカウトのリーダーをしていて、父から「里佳、ガールスカウトに入るか?」と聞かれて何もわかっていないのに「うん!入る」と言って私は小学1年生から高校までの10年間所属し、一瞬だけでしたが家族全員ボーイ・ガールスカウト活動をしていました。年に2〜3回はキャンプに行ったり自然にある山菜を採って天ぷらにして食べる野外活動や、ロープの結び方を学んだり、山登り、募金活動、高齢者施設などへのボランティア活動、地域イベントのパレードではプラカードを持ったり、私は誰でも経験出来ることではない地域代表で御堂筋パレードの21世紀旗を持つ担当を2年させてもい、かなり良い体験をしました。

アウトドア好きの父は外で沢山の近所の子供を楽しませるのが好きだったのでよくキャンプファイヤーのエールマスターをやゲーム本を読んで勉強しては近所の公園で子供を数十人集めてゲームをしていました。また、トラックに荷台を作り、10日分ほどの水や食料、衣服、自転車などを積んで沢山の子供達を連れてフェリーに乗って淡路島へ無計画キャンプに行ったりとサバイバルのようでそれはめちゃくちゃ楽しい思い出でした。

山、道路、海しかない場所で4tトラックが止めれる場所を探し良い感じのスペースがある岩を見つけてそこにトラックを止めて滞在する。今だと警察来てるかもしれないくらい何の許可もない場所。2km先に港があるので道路が渋滞したときは車に乗っている人たちにキャンプしているのがまるわかり。当時では珍しく発電機を持っていたので野外でテレビも見ていたから通りすがりの人は皆、物珍しく見てました。宝探しゲームもしてくれて仕掛けの時に内緒で隠し場所を父が教えてくれたのも可愛い娘だけ💖なんて(笑)皆で自転車に乗って下り町中にある銭湯に行ったりもしました。日焼けして皮膚が痛くなりまくりで悲鳴を上げながらお風呂に入っていてそれも楽しかったです。こんな影響もありガールスカウトでも父がしていたことを人にもするようになって父の血を受け継いでるな〜って感じです。

そのな平凡で幸せな家庭にある日突然苦難が訪れるのでした。

母は理由はわかりませんが昔は家族旅行にも行っていたと思うのですけど、数年経ってからこんな毎年楽しいキャンプに同行した事がありませんでした。しかし私は父と兄弟、友達とキャンプに行く事があまりにも楽し過ぎたので母がいないことを寂しいとも悲しいとも思いわずにいました。今思えば父方の親戚の法事やお墓参りもにもいつの間にか行ってなかったので、小学生以降は母と家族で出かけた思い出がないような気がします。

自宅に帰った時、近所の人が父に母の行動を報告した人がいて、それを聞いた父は超激怒!理由も何も耳を傾けることなく母を一方的に怒り殴る蹴るの暴行を振るう。その時父が聞いたのが男性と会っていたと聞いたので浮気を疑ったそう(真実ではなかったことを最近知った)

父は子煩悩でありがら真面目でぶっきらぼうな人、そんな父も生まれて直ぐに両親が離婚し実父と会ったことがなく知らないままだったそう。17歳で産んだ祖母は父を自分の親に託し養子に出し祖父母に育ててもらい、その長男(伯父)がかなり厳しい人で結構大変な環境で育ったこともあって、過去のトラウマが蘇ったかのように「自分は捨てられた」と心傷ついていた状態だったのかもしれない。

当時、私は小学3年生の8歳、父が母に暴力を振るっているのを見て、「あ~このご飯、今日で食べるの最後なんかな~」と思ったのを覚えている。そんな日がほぼ毎日続き、よく追い出されていた母からは「鍵開けて」と頼まれるも、父に洗脳されているので兄弟皆母の言う事は聞かないままだった。まあ、それも勝手なことをしたら父から怒られるのではないかと言う恐怖心もあったと思う。そんなこんなで2年間で夫婦関係を修復しようと試みた両親でしたが結局、私が小学5年生の10歳で離婚することになりました。

続く

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